地形(地層)的な側面から
◆千葉県の大地の大部分は、もともとは海底にあり、地殻変動により隆起してできた半島でした。従って、地層は深海底から浅い海の堆積物でできています。
◆最も古い堆積岩は銚子地域に分布する前期白亜紀(1億3千万~1億1千万年前)の浅い海に堆積した銚子層群です。特に嶺岡構造帯は、千葉県の大地に分布する地層の中で最も複雑に変形しており、堆積岩、火成岩、そして変成岩といった多様な岩石で、様々な年代を示す地層がモザイク状に分布します。
◆嶺岡構造帯南側には保田層群、三浦層群相当層、西岬層、千倉層群、そして豊房層群といった構造帯北部と同時期の地層が、南方に向かって新しい順に、小規模かつ断片的に分布します.断層や褶曲で変形したこれらの地層は、プレート沈み込みの副産物としてよく知られている付加体堆積物です。
  ◆千葉県では、中~北部に広がる下総台地が最も古い地形となっています。この台地の大部分は12万年前頃の最終間氷期に、古東京湾という浅い海が干上がって誕生した大地です。
◆下総台地を詳しく見ると下総上位面と下総下位面の2 面に分けられ、それぞれの面を覆う関東ローム層中に挟まれるテフラによって、下総上位面が 12 万年前頃、下総下位面が10 万年前頃に陸化したことがわかります。
◆下総台地を刻む谷沿いには、最終氷期の海面低下に伴い,数段の河成段丘が形成されています。特に中部の養老川,小櫃おびつ川では,市原面や南総面、久留里面といった更新末期から完新世にかけての段丘が発達しています。
◆中部の夷隅いすみ川河口には吉附面という3 万年前頃の海岸付近で形成されたと思われる段丘が分布します。3 万年前の海成面は、隆起の著しい地域にのみ見られ、世界的にみても珍しい地形です。これら台地や段丘、丘陵のまわりは低地になっており、沖積面とも呼ばれます。沖積面は、6~7 千年前頃の浅い海や入り江が、海面の低下や地盤の上昇によって徐々に干上がって形成されました。
◆千葉県南部の海岸沿いには、沼面と呼ばれる完新世に形成された海岸段丘が何段も発達しています。これは、千葉県南部はプレート沿いで発生する大地震時で隆起しており、くり返す地震によって波食棚などの平坦な浅海底が干上がり、1 段1 段が間欠的に形成されていったのです.最も高い7,200年前の段丘は、標高30 m にも達します。
◆平均隆起速度は約4 mm/年と推定されますので、この隆起運動が更新世から続いていたとすれば、下総台地に対比される地形面が標高500 m に近い高さに分布しているわけです。しかし、実際には千葉県南部は大部分が標高200m程度の急峻な丘陵となっており、これはこの丘陵は比較的軟らかい砂泥岩で構成されているため、著しい隆起で侵食し、更新世の地形面を消失させてしまったのかも知れません。
        【地質ニュース605号(宍倉正展氏・川上俊介氏著)文献より抜粋】 

歴史的な側面から

 縄文時代が始まる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5 - 10mほど高くなり、関東平野には古東京湾古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。

 房総の最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々で、四国の阿波から豊かな土地を求めて黒潮に乗ってきた人だと言われている。

 千葉県の旧石器時代の人々は、古鬼怒川沿いに石器の原材料を求め北は高原山から南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら生活を営み、主な狩場である常総台地ではナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活を営んでいたと考えられている。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層等から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しく、高原山や甲信地方の中央高地などから運ばれたと考えられている。

縄文から古墳時代
 縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。縄文時代の貝塚は日本各地に約2300か所を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644か所ほどの遺跡が見られる。
 千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。
 県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わる頃の籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。
 農耕社会に入ると「ムラ」の形態が変化し、これまでの採集経済に代わり、生産経済が展開されていく。この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年(昭和54年)から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。
 遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模があり、陸橋、門柱、柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかっている。
 弥生時代末期になると六崎大崎台遺跡の環濠は消滅し、ムラの景観が一変する。台地の北に大型住居を伴ったムラが作られ、南には墳墓を有する大型の方形周溝墓が作られた。こうした変化は、墓がムラの共通空間として認識されるようになったこと示唆している。ムラの首長のあり方が変化し、地方豪族が誕生、社会変動の過程で新たな墓が出現するようになり、古墳時代に至る。
 関東では、関西より100年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから、俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法・建築様式等)などにその影響が見られる。
 古墳時代房総半島は、「捄国」(ふさのくに。古くは麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波徳島県)から黒潮に乗って渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名を取って安房としたのが起源だとされる。
 これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式が取られ、忌部氏の氏神とされる安房大神安房神社)は、8世紀前半までは、 東国では鹿島神に次ぐ扱いで、香取神を上回っていたとされる。
 また、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏(神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)や中臣氏が上総国に到来、開拓を行いながら常陸国(現在の茨城県)に勢力を伸ばし、中臣片岡連が氏神として鹿島神宮を建立したとされる。因みに平安時代から日本にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみである。
 県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳を始め、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総におけるヤマト王権の影響力が見られる。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務朝に阿波国造、長狭国造、須恵国造、馬来田国造、菊麻国造、伊甚国造、上海上国造、武社国造が、応神朝に下海上国造、千葉国造、印波国造が置かれたとされる。
 県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からも分かるように、古来より海上交通を通じて発達しており、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多い。1990年(平成2年)時点で8665基の古墳横穴が4083基が県内で確認されており、古墳の数は全国第4位を占める。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
 なお、遺跡の多くは山(標高20m - 30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」となっていたためで、この影響は、平安時代から鎌倉時代まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など、各地の伝承や伝説などにも見受けられる。
  6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。   千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町および成田市にある龍角寺古墳群(古墳総数は111 - 124基)がある。
 遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造の影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群は6世紀に始まったとされ、7世紀末までの200年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院へ)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は7世紀中葉までに及び、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳の一つといわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。
 そして、岩屋古墳の北北西約1kmの場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られる。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者がヤマト王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字が書かれた瓦が出土している。その文字瓦には「朝布」「赤加賀」「玉作」などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前に遡ることを証明する貴重な資料の一つと言われている。

飛鳥から平安時代
 大化の改新、捄国は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに養老2年(718年)に上総国から安房国が分離して三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、天平宝字元年(757年)に再び分割された。
 地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国(現在の神奈川県)から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、『日本書紀』には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった68の各国は、国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と『延喜式』には記されている。
 また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、平良兼や菅原孝標がそうであったように、国府の実質的長官は上総介が握っていた。
 安房・上総・下総の各国には、駅(駅家)が設置され、駅馬と伝馬が配備されていた。この三国が属した東海道は中路とされた。安房国には駅馬が白浜・川上各5頭が配備、上総国には駅馬が大前・藤潴(ふじぬま)・島穴・天羽の各郡に5頭、伝馬は海上・望陀・周淮・天羽の各郡に5頭、下総国には駅馬が井上10頭、浮嶋・河輪各5頭、茜津・於賦(おう)各10頭、伝馬が葛飾郡10頭、千葉・相馬の各郡5頭が配備されていた(『延喜式』)。
 大宝元年(701年)には、国には国司をが政務をとる国庁と国府が設置された。上総国の国府は市原市下総の国府は市川市国府台の地に、安房国府は安房郡三芳村府中に置かれた。安房国府の遺構は見つかっていない。郡には郡家が設置された。上総国海上郡家が市原市西野遺跡下総国埴生郡家が栄町大原遺跡など発見されているが、その他の郡家跡は明確でない。
 また、田祖・正税を納める倉庫である郡家の正倉は、我孫子市日秀西遺跡が下総国相馬郡のものと想定されている。他方、国分寺(金光明四天王寺護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)については、上総は市原市、下総は市川市国分に所在し、安房はまだ不明である。
 東国の武士の勇猛さは知れ渡っており、九州筑紫の防衛をする防人に東国出身の兵士が、充てられた。その上総・下総国出身の防人の歌が『万葉集』巻20に出ている。防人は難波津に集結し、海路で筑紫に向かった。難波までは食料自弁であった。筑紫では空き地が与えられ稲や雑穀を栽培して食料とした。
 平安時代中期、平安京では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生し始める。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いを振るったが、平安時代の平将門、次いで平忠常が反乱を起こし、房総三国は一時「亡国」と言われるほど荒廃した。この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷を行なったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。

鎌倉から戦国時代まで
 この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は下総国千葉荘を本拠とした豪族で、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺氏、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と遠藤氏、高城氏は明治維新まで存続する。
 しかし、千葉氏も平安時代までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代する度に荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど、困難な状況に追い込まれていた。
 千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し、介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど、平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが、治承・寿永の乱を経ての鎌倉幕府創設への貢献だった。
 治承4年(1180年)、石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏を始めとする総州の諸侯(安西氏、和田氏、葛西氏など)が支援したことによって、わずか1か月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。
 この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。
 一方の上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯がある。
 鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから、当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、文永の役、弘安の役に参加している。
 しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千葉胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府を打倒すると、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏と新田義貞双方に属し、延元元年:南朝/建武3年:北朝(1336年)に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。
 また、正平20年:南朝/貞治4年:北朝(1365年)の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。
この頃、房総では日蓮が日蓮宗を興した。
 さらに室町時代になると、関東では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。
 この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)を始め、関東の諸氏の勢力を衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、康正元年(1455年)の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉氏宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。
 この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の後北条氏が関東各地を次々と支配下に置き、台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏との戦い(国府台合戦など)や、反北条を掲げる上杉謙信による越後国(現在の新潟県)からの関東遠征に巻き込まれていく。
 上総国では、上総武田氏が台頭、古河公方の分家筋である足利義明を小弓公方として擁立して勢力の拡大を目指した。
 安房国では、永享12年(1440年)の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると後北条氏と房総の覇権を争うことになる(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有)。

安土桃山時代から江戸時代まで
 天正3年 (1575年)、後北条氏が上総国に侵攻した。
天正18年(1590年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で敗れた後北条氏が没落すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。
 一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原征伐の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。
 下総・上総を含む後北条氏の旧領には、徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝を始めとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも、里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保忠隣失脚の余波を受けて改易、その後断に絶することになる。
 江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから、有力な大名家は置かれず、小大名領と旗本知行地、天領に細かく分割された。
 房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役を務めた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務め、公武合体政策などを推し進めた。
 下総国には、他に小栗原藩高岡藩小見川藩多古藩生実藩が、上総国には鶴牧藩請西藩飯野藩一宮藩佐貫藩久留里藩大多喜藩が、安房国には勝山藩船形藩館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新時の徳川家達の静岡藩への移封に伴い、静岡藩に編入された駿河・遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。
 江戸時代前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こり、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しむ百姓を救おうとした「義民」として芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。
 しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆が起きるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並みか少し高いくらいで恵まれた地域であった。
 江戸時代を通じて、県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから、薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。
 有名な話としては、享保の大飢饉対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の馬加村(現:千葉市花見川区幕張町)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培が実施され、享保20年(1735年)関東地方でも栽培が可能であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけを作ったことは有名である。なお、下総薬園台(現:船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。
 また、房総は江戸に近く、軍馬の養成に適した平地が多かったことから、旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧佐倉牧嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所に数えられ、松尾芭蕉や小林一茶、歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代にインド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本で初めて生産された。
 江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、街道や水運なども整備され、宿場町や間の宿が形成された。
 江戸時代初期の利根川東遷事業で河川舟運の拠点となり栄えた佐原は”北総の小江戸”、”水郷の町”と呼ばれ「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商家町で、商業や醸造業が発展した。『大日本沿海輿地図』として結実する日本各地の測量に歩いた伊能忠敬は、佐原の商人出身である

明治から第二次世界大戦
 戊辰戦争において、慶応4年4月11日(1868年5月3日)の江戸城無血開城に前後して、下総西部から下野国(現在の栃木県)の一帯では3月から4月にかけて結城城の争奪戦が行われ、4月には旧幕府陸軍歩兵奉行大鳥圭介の部隊2000人が市川、結城、宇都宮、さらに会津へと北上・転戦していった。
 一方、上総西部に旧幕府撒兵隊が「徳川義軍府」を称して侵入し、周辺各地から物資や武器、兵員を徴発し、4月下旬には下総西部まで進軍した。海上では旧幕府海軍副総裁榎本武揚が軍艦7隻を率いて館山湾に入り、一部は上陸した。
 また、請西藩主林忠崇が新政府軍に抵抗して旧幕府軍に身を投じた。しかし、市川・船橋戦争・五井戦争と呼ばれる戦闘が生じたのみで、戊辰戦争に巻き込まれずに明治を迎える。
 明治元年慶応4年)9月(1868年10月)、明治と改元される。すでに政体書によって決まっていた府藩県三治の地方制度が、6月頃から関東地方で実施され始めた。幕末期の房総地方には17藩が所在したが、かつての将軍家であった徳川宗家が駿河・遠江をもって静岡藩70万石に移封されたことに伴ってそれまで両国にあった7藩[注釈 7]が移封となり、また林忠崇の請西藩(1万石)が改易処分を受けたために、明治元年末(1869年初め)には23藩の多数にのぼった。そのため明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県が実施されると、26県という多数の県が並立することとなった。しかし、同年11月の全国的な県の廃合で新治県・木更津県・印旛県の3県に統合された。
 次いで、1873年(明治6年)6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(現・本千葉町)に開設された。千葉県権令には柴原和が就任した。1875年(明治8年)5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡・匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入した。次いで葛飾郡のうち江戸川以西を埼玉県に移管し(のち中葛飾郡を経て北葛飾郡の一部)、さらに1899年(明治32年)4月1日に香取郡の利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。
 明治2年(1869年)には、明治政府によって、東京府在住の旧武士(士族)をはじめとする失業者の救済のために旧幕府牧の開墾事業が計画され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三などの村が新しく作られた。
 また、東京に近かったことから、1873年(明治6年)に明治天皇が習志野原へ御幸して以来、首都防衛を名目に、習志野を始め千葉、市川、柏、松戸、佐倉、四街道、茂原、木更津、富津、館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。太平洋戦争(大東亜戦争)の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲のための前線基地も置かれた。なお、県や各市町村も、このような軍事拠点を造ることが重要な産業基盤につながると捉え、競って誘致を推進した。その中でも千葉市は、千葉連隊区司令官を始め多くの軍学校や軍営施設が造られたことから、軍都千葉と呼ばれた。
 1904年(明治37年)に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦、黒溝台会戦・奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画『戦場に架ける橋』のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線、久留里線、小湊鉄道などのインフラ整備に貢献している。
 近代になると、官主導のもと近代産業の育成が行われたが、千葉県では地下資源に恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残される形となった。だが、江戸時代以降の醤油・みりんといった醸造業は近代に入っても発展を続け、1928年(昭和3年)には、太平洋戦争前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。
 他の発達産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年(明治8年)に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業の一つとなった。なお、御料牧場は後述する新東京国際空港(成田空港)建設地の一部となり、1969年(昭和44年)に栃木県高根沢町に移転することとなる。
 一方、南房総では、地場産業であったヨード製造の事業を背景に、実業家の森矗昶によって森コンツェルンが創業された。森コンツェルンはアルミニウムなどの金属産業、電気産業、化学工業などを中心とするコンツェルンに発展、日本産業、日本窒素肥料、日本曹達、理化学研究所とともに新興コンツェルンと呼ばれた。
 大正・昭和初期にかけて鉄道を始めとする交通機関が発達すると東京湾沿線沿いや銚子、一宮などの九十九里浜沿岸南房総には、避暑地や観光地が整備された。また、谷津遊園、中山競馬場などの娯楽施設が造られ、観光産業が盛んとなった。
 1941年(昭和16年)、米英などとの太平洋戦争が始まると、千葉県も重要な食料生産拠点として、食糧増産が各地で行なわれ、肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳しい供出割当が組まれた。大戦末期になると、航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。
 一方、工業方面では、東京に近い市川市・船橋市・津田沼町、千葉市にかけて軍需工場が次々と移転、地域の中小企業も合併が進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年(昭和17年)には、東京湾の埋め立工事が進められ、日立航空機千葉工場が建設された。さらに大戦末期には、大網・茂原・興津・鴨川などに大規模な地下工場も造られ、千葉県の工業化比率は大きく進んだ。新たに東京帝国大学第二工学部(現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市に新設されると、造兵研究の拠点ともなった。

 1944年(昭和19年)、米軍はサイパン島、グアム島、テニアンを占領し、日本本土空襲が本格化させた。房総半島は東京への空襲を狙うB-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では激しい航空戦が行なわれるようになった。
 千葉空襲、銚子空襲で県内も攻撃目標になったほか、爆撃隊が帰途に不要となった爆弾を投棄したり、空母や硫黄島から飛来した戦闘機(F6Fヘルキャット、F4Uコルセア、P51ムスタングなど)が軍関係施設や港湾施設、工場や学校、集落に対して機銃掃射を加えたりする被害もあった。
 大戦末期になると、本土決戦の可能性が高まり、連合国軍の上陸の可能性が最も高い場所として、日本軍と連合国軍両者とも同じく九十九里浜を挙げており、日本軍および大政翼賛会は住民志願者を募り、国民義勇軍防衛隊を組織、竹槍による軍事教練や陣地構築が実施されたが、日本の降伏により、県内では地上戦は行われずに終戦を迎えた。この時、小磯国昭首相に代わり、下総関宿藩士出身の鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織、終戦工作に奔走し、終戦内閣と呼ばれた。

第二次世界大戦後から現在
 1945年(昭和20年)9月3日、敗戦に伴い、米軍が富津・館山に上陸県内各地に展開し、武装解除と日本軍施設および一部の公共施設が進駐軍に接収された。同年10月に千葉市に進駐、千葉県庁本館2階に占領政策のため本部が設置された。
 翌年の1946年(昭和21年)7月には千葉軍政部に改称、1949年(昭和24年)11月まで、GHQの軍政下に置かれる。また、県内各地の特攻隊基地(震洋、桜花、回天、海竜、蛟竜、S特攻部隊等)や館山海軍砲術学校、陸軍習志野学校を始めとする旧日本軍関係施設が進駐軍によって調査される。
 県内各地で、食糧難から買い出し者が集まり、闇市が自然に発生する。戦中から戦後にかけて東京方面などから多数の空襲被災者が千葉県(主に葛飾地域)に流入し、浮浪者が増加、都市部を中心に治安が一時、悪化する。また、住居不足が深刻化し、被災者用の住居建設や開拓農地開発営団習志野事業部による習志野開拓や下志津開墾などの救済事業が実施される。
 1950年(昭和25年)以降、東京湾沿岸の埋め立て、印旛沼干拓を始め、県内各地での開発が活発化し、県・国・民間が関わる大規模開発が続々推進された。東京湾沿いには、京葉工業地域が建設され、重化学工業が発展する。ベッドタウンの開発が進み、いわゆる「千葉都民」が急増する。県内の主なニュータウンとしては、海浜ニュータウン、成田ニュータウン、千葉ニュータウンなどがある(千葉県のニュータウン一覧)。
 また、東京に近い好立地を活かして、湾岸沿いを中心に谷津遊園(1925年(大正14年) - 1982年(昭和57年))、船橋ヘルスセンター(1955年(昭和30年) - 1977年(昭和52年))、マザー牧場(1960年(昭和35年) - )、東京ディズニーランド(1983年(昭和58年) - )などの大規模レジャー施設が数多く誕生した。1978年(昭和53年)には新東京国際空港(通称「成田空港」、現在の正式名称は「成田国際空港」)が開港、1989年(平成元年)には幕張メッセがオープン。周辺地域は大きな発展を遂げた。
 一方で、経済発展による恩恵の代償として、東京湾の干潟や利根川流域の水郷風景など、房総固有の風致(特に水辺空間)の多くが失われてしまった。県内では急激な開発と行政の無策のため、生活排水や工業排水、農薬などが垂れ流しにされ、干拓や埋め立て、護岸による湿地帯・干潟の衰退があいまって、県内各地の河川や湖沼の水質は著しく悪化した。東京湾でも、水質汚染が一時、深刻な問題となり、漁業権を放棄する漁業協同組合が相次いだ。
 特にこの時期は利根川水系の生態系が大きく毀損され、この地域の内水面漁業は壊滅状態となった。さらに、天然ガス採掘や地下水を過剰汲み上げしたことによる地盤沈下が深刻化し、船橋市では1974年(昭和49年)に「地盤沈下非常事態宣言」を発令する。モータリゼーションによる排気ガスの増加や、工場などから排出される煙などによる、光化学スモッグ、ゴミ焼却によるダイオキシン問題等の大気汚染も深刻化した。近年においては、産業廃棄物や感染性医療廃棄物、硫酸ピッチなどが農地や山林に埋められるなど、不法投棄も問題になっている。
 このため、千葉県では、環境系のNPOや市民団体を積極的に支援したり、2008年(平成20年)に千葉県が環境基本計画を制定したりするなど、環境方面に力を入れる傾向が見られる。また成田空港の建設においては、行政側の性急な計画遂行が仇となって死者を生じるまでの大反対運動に発展し、県内のインフラ整備に深刻な影響をもたらした(成田空港問題)。
 1997年(平成9年)には、東京湾アクアライン(木更津 - 川崎間)が開通。房総半島部の開発が進むことが期待されたが、利用は予想ほど伸びなかった一方、半島部の商業拠点はアクアラインによるストロー現象により、むしろ衰退の傾向が見られる。
 三番瀬埋め立て反対を掲げて当選した堂本暁子知事の時に臨海部の埋め立てが中止されたが、館山自動車道首都圏中央連絡自動車道の建設など、道路建設は引き続き推進されている。近年の千葉県では、成田空港の存在と東京近郊の立地を生かし、『観光立県ちば推進ビジョン』を作成し、「花と海」をテーマにイメージアップを図ろうとしている。埋蔵量が豊富な南関東ガス田の活用や、近年、注目されているバイオ燃料の生産のための研究も行われるなど、新たなエネルギー産業の育成も試みられている。
 また、市民ベースだが、エコツアーやアグリツーリズム、使用されなくなった農耕地を利用した市民農園やクラインガルテンを設置など、地域風土(自然環境や農業・漁業等の地場産業)を活かした新たな体験型観光ビジネスモデルに関しての模索も行われている。そのほかにも従来の近郊農業に加え、農産物や酪農、林業などの分野に関する研究も行われており、新たなブランド品種の開発も試みられている。
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大まかな歴史 

 はるか昔に、四国の阿波(あわ)から豊(ゆた)かな土地を求めて黒潮(くろしお)に乗ってやってきた人々(ひとびと)が房総半島(ぼうそうはんとう)に上陸阿波(あわ)の国で栽培(さいばい)されていた麻(あさ)を植えたところ良質(りょうしつ)な麻(あさ)が育ったのでこの地を総(ふさ)(あさの古語)の国とし人々(ひとびと)が住んだところを同じ安房(あわ)と名づけたと伝(つた)えられています。

 のちに都に近いほうが上総(かずさ)、遠いほうが下総(しもうさ)と呼(よ)ばれるようになり安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)の三国に分かれました

  大化の改新ののち、それぞれの国に地方の行政(ぎょうせい)をつかさどる役所である国府(こくふ)が置かれましたが、奈良時代(ならじだい)になるとこの三国にそれぞれ国分寺が建立され、地方文化の中心となっていきます。

 平安に入り、地方政治(ちほうせいじ)が乱(みだ)れ、平将門(たいらのまさかど)や平忠常(たいらただつね)の乱(らん)が起こり房総(ぼうそう)の地は戦場になりました。のちに忠常(ただつね)の子孫から千葉氏や上総氏(かずさし)がおこり房総(ぼうそう)を舞台(ぶたい)に活躍(かつやく)しました。

  源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉(かまくら)に幕府(ばくふ)を開く際(さい)に千葉常胤(ちばつねたね)は非常(ひじょう)に貢献(こうけん)し、房総(ぼうそう)に大きな勢力(せいりょく)を占(し)めました。のちに室町、戦国時代になると中央政権(ちゅうおうせいけん)の争(あらそ)いは房総(ぼうそう)の地にもおよびました

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天下を統一(とういつ)すると関東の地を家康(いえやす)に与(あた)えています家康(いえやす)が江戸(えど)に幕府(ばくふ)を開くと房総(ぼうそう)はそのおひざ元として経済的(けいざいてき)にも軍事的にも重要な地となりました。そのため、大名が治める藩(はん)もいくつか置かれましたがいずれも小さく佐倉藩(さくらはん)がいちばん大きな藩(はん)でした

 明治4年7月の廃藩置県(はいはんちけん)ののち、同年11月に安房(あわ)4郡(ぐん)と上総(かずさ)9郡(ぐん)をもって木更津県(きさらづけん)下総(しもうさ)9郡(ぐん)をもって印旛県(いんばけん)下総(しもうさ)3郡(ぐん)と常陸(ひたち)6郡(ぐん)をもって新治県(にいはりけん)ができました
 明治6年6月15日に木更津(きさらづ)と印旛(いんば)の両県をあわせて千葉県が誕生(たんじょう)。県庁(けんちょう)を当時の千葉町に置きました
                   【千葉県のホームページより】